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私がパニック障害を治せた理由 前編

私がパニック障害を治せた理由 前編

こんにちは、(株)華ひらくで代表をしております、飲食店インバウンド専門家の内木美樹です。
飲食店の接客英会話レッスンと全く関係ないのですが、今日は「私がパニック障害 を治せた理由」について書きたいと思います。

 

なぜいきなりこの様な記事を書こうと思ったのか?
自分でもよく分からないのですが、恐らく、先日友達から「どうやってパニック障害を治したの?」と聞かれたからだと思います。

どうしてパニック障害が収まったのかなんてこれまで考えたことなかったのですが、考えるようになったら答えが出て来て、そうしたらふと、

「大した事は書けないけど、今、パニック障害で苦しんでいる方のヒントになれればいいな。」

という想いが湧いてきたのです。

本当に大した事ではないので、画期的な事は書けないのですが、少しでも参考になれば嬉しいです。

 

 

私がパニック障害を発症した原因

私が具体的にいつ、パニック障害を発症したのかは覚えていないのですが、恐らく13歳です。

発症の原因は、4つあると思っています。

1つ目は「最愛の母の死」。

2つ目は「母が他界した事により、この世から私の事を心から気にかけてくれる大人がいなくなった事」。

3つ目は「正義感」。

そして4つ目は「嫉妬と孤独感」です。

 

 

最愛の母の死

私の母は私が12歳の時に病気で他界しました。
すい臓癌で、病気が分かった時は既に手術も出来ない程の手遅れ状態でした。
母がまだ若かった(44歳)という事もあり、医師からは「余命3ヶ月」と宣告され、本当に3か月後にこの世を去りました。

12歳なので「死」の意味は理解していましたが、それまで一度も身近で亡くなった方がいなかったので、母が他界した事で初めて「死」を本当の意味で理解する事になりました。

 

 

 

母が他界した事により、この世から私の事を心から気にかけてくれる大人がいなくなった事

私は父・母・3才年上の兄の4人家族でした。
しかし母が他界し、家では女が私だけになった事と、

「お母さんが死んで一番つらいのはお父さんのはずだから、お父さんに負担をかけてはいけない。」

という思いがあり、家事の多くは自然と私がやる事になりました。

 

先生や周りの大人は「学校行きながら家事やって、大変じゃない?」と声をかけてくれました。
もちろん大変ではないと言ったら嘘になりますが、身体的なつらさよりも、精神的なつらさの方が遥かに大きかったです。

 

母はいつも私の話を聴いてくれました。
「今日学校どうたった?」
と質問してくれたり、私が話す
「今日学校でね、○○ちゃんがこういう事を言ってね、」
という何気ない会話も、いつも聴いてくれました。

運動会には毎回お弁当を作って応援に来てくれました。
私は運動が得意という事もあり、リレーの選手に選ばれたりしていたので、運動会から帰ってくると
「美樹、速かったね!」
とちゃんと私の事を見てくれて、私の頑張りを喜んでくれました。

つらい事、嫌な事があると、母はいつも
「美樹はママの宝物だよ。」
と言ってギュッと抱きしめてくれました。

 

でも、そんな母はこの世からいなくなってしまいました。

家に帰っても誰もいない。
誰も私の話に耳を傾けてくれない。
私のご飯を作ってくれる人もいない。
運動会に応援に来てくれる人もいない。
私の頑張りを心から喜んでくれる人もいない。
つらい事があっても抱きしめてくれる人もいない…。

今まで当たり前の様にいてくれた私の最大の理解者で、世界中で誰よりも私の事を愛してくれる人が、いなくなってしまいました。

心に大きくぽっかりと空いた穴。

寂しくて寂しくて、学校の担任の先生に頼った事もありました。
でも、「え、私がやるの?」みたいな対応され、
「そうか、頼ってはダメなんだ。」
と学びました。

 

 

 

正義感

何度も心が折れそうになり、何度も母の元に行きたいと思いました。
まともに生きるのがつらいから、まっとうな生き方から外れる人生を歩もうとも思いました。
でもその度に、亡くなる少し前の母を思い出すのです。

最終的には脳も癌細胞に蝕まれてしまったのでしょうね。
亡くなる数日前から意識もなく、呼んでも返事も出来ない様な状態でした。
また、食べられない事で体は本当に骨と皮だけのガリガリ状態でした。

でもその様な状態になる前の、まだ話せる段階の時、母は私に泣きながら謝りました。

「ごめんね。こんなお母さんでごめんね…。」

 

また、亡くなる2日前、呼んでも何も返って来ない状態にも関わらず、母が2粒の涙を流しました。
体は癌に蝕まれていても、心だけは残っていました。

「子供を残して死ねない。生きたい…。」

という、無念の涙だったのだと思います。

 

母は私に謝りましたが、私にとって母は世界で一番大好きな人です。
母の娘として生まれてきた事を、心から誇りに思っています。
なので、「こんなお母さんでごめんね。」なんて言って欲しくなかったです。

でも、もし私がここで自らの命を絶ったら、もし私が他人様に迷惑をかける様な人間になったら、きっと母は天国でもっとつらい思いをするんだろうなと。
死んでも死にきれないなと思いました。

なので、「これ以上天国の母を悲しい気持ちにさせたくない」という正義感だけが、私のまともな人間としての生きる道を支えていた様に思います。

 

しかし、それでも毎日毎日つらすぎました。
特に家は、どこに居ても母との思い出がありすぎて、何をしていても母を思い出し、ただただ涙が溢れてきました。

「どうして私も一緒に連れて行ってくれなかったの!」

と心の中で何度も叫びました。

 

毎日、時間が解決してくれる事を期待していました。
早くラクになる事を心底願っていました。
しかし、泣いても泣いても一向にラクにならないので、その内、

「母との思い出なんてなくなってしまえばいい。」

と思う様になってしまいました。
そして、泣くたびに

「母の事を忘れたい、忘れたい…」

と強く願う様になりました。。。

 

そうしたら、本当に忘れてしまいました。
脳ってすごいですね、忘れたいと何年も強く願ったら、本当に忘れられるものなんですね。
ある日突然記憶がなくなったのではなく、少しずつなくなっていきました。

その結果、母と過ごした大切な12年間の事、私はほぼ何も覚えていないです。
思い出そうとすると、心の奥から黒い霧の様なものがモヤモヤと出て来て、息苦しくなるのです。
母の死からもうすぐ24年たちますが、未だにです。

 

 

 

嫉妬と孤独感

家にいると孤独で、嫌でも母の死と向き合わなくてはいけないのでつらい。
でも、学校は周りの友だちが羨ましすぎてつらかったです。

友だちにはお母さんが当たり前の様にいました。

お昼の時間、私は自分が作ったみっともないお弁当だけど、みんなはお母さんが作ったちゃんとしたお弁当を持ってきています。
休み時間、友達が何気なく話す「家族の話」に、いつも胸がえぐられるような思いでした。
運動会も入学式も卒業式も、私には誰もいないけど、みんなはお母さんが来てくれていました。

日々の何気ない会話から大きなイベントまで、常に自分とみんなを比べてしまいます。

みんなには当たり前の様にいる「お母さん」が、私にはもういない。
その現実を毎日突きつけられ、みんなが羨ましくて羨ましくて仕方がなかったです。

 

そして、学校から家に帰っても電気は付いてなく、誰もいない。
誰も私の帰りを待っていない。
自分の誕生日ですら、コンビニで買ったお弁当を一人で食べる生活。
毎日が本当に孤独でした。

 

 

 

 

パニック障害の発症場所と時間

私が外出中にパニックに襲われる事はありませんでした。
パニックはいつも、夜に1人で家にいる時にやってきました。

発症すると物凄い恐怖感に襲われ、
涙が止まらなくなり、
呼吸が苦しいのでぜぇぜぇ言いながら嗚咽をしながら泣き、
「明日」という恐怖に怯えていました。

「明日」が来るのが怖くて怖くて仕方がなかったのです。

今考えると、「明日も今日と同じくらいつらい日になる」という考え方が段々と膨張して、恐怖になったのだと思います。

 

 

 

 

精神科に通院、精神安定剤を飲む毎日

高校2年生の時、手の震えが止まらなくなりました。
そして、日中も恐怖に襲われる回数が増えてしまい、藁にもすがるような思いで近くの大きな病院の精神科に行ってみました。

「精神科の先生なら私の話に耳を傾けてくれるのではないか。」

といちるの望みを託したのです。
しかし実際は、クールな先生がさらっ私の話を聞き、

「じゃあお薬出しますね。」

で終わりました。

 

私はきっと、

「つらかったね。」
「あなたはこれまで本当によくがんばってきたよ。」

と言う様な、共感して褒めてもらいたかったのだと思います。
その言葉があるだけで、私は救われたと思います。
しかし実際は、「分かりました。」の一言でした。

「やっぱり、誰も私の話を聴いてくれないんだ…。」

と絶望し、益々孤独になった気がしました。

 

処方された精神安定剤は、1回1錠でした。
でも1錠では全然効かず、2錠飲むと手の震えも収まり、パニックに襲われる回数も少し減りました。

「あ、今日は『明日』が怖くない!」

と気づいた時は、心が晴れやかになりました。
それからしばらく、精神安定剤を服用する日が続きました。

 

 

後半へ続く。

 

 

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